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歩んできた道の一覧

2016/04/01

私の歩んできた道~第17回〜南青山ライフ

僕が、高校生の頃、1980年代後半、いわゆる、バブル期に、流行の最先端だった、ホイチョイプロダクションズ。デートの時にかっこ良くふるまうために、または、早く大人になりたくて、情報をたくさん詰め込んでましたね。それからずっと、青山での暮らしに憧れがありました。

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画像は、mixiから el_cidさんから転載

http://mixi.jp/view_bbs_comment.pl?comment_number=3&community_id=11414&bbs_id=4216346

始発の電車に乗って、青山のオフィスに出勤。少し作業したのち、散歩。スポーツジムに通い、来客対応をする。夢にみた、青山ライフだった。しかしながら、熱狂は続かず、次第に足が遠のいていった。

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画像は日本リージャズ社から転載

ある時、会社にしばらく行っていない事に気付きました。世の中には、軽量なノートパソコンやスマートフォンが出回り、紙の文書の電子化を進めました。どこでも作業出来る環境になったわけです。いわゆる、ノマドになったわけです。オフィスを使うのは、月末から月初の数日間だけにはなりました。そのために、専有スペースを借り続けのはもったいないなあと考えていました。

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画像は、amazon社から転載

上記の本によると、欧米では、小規模零細企業は、経理業務などは外部委託が主流のようでした。日本でも、多くの委託会社があり、そのうちの1社に委託をして、オフィスを撤退いたしました。

3年弱で青山ライフが終わったわけです。


2009/12/31

私の歩んできた道~第16回〜新たな始まり

そして今年の3月、夜明け前、南青山にいた。
まだ、肌寒かった。
引っ越しもようやく終わり、たくさんの依頼を、こなす毎日だった。
皆様が応援してくださっているようで、大変有り難かった。

工場を撤退したら、工場に関係する業務がなくなるわけだから、かなり時間に余裕ができるなあと思っていた。
予想に反して、うれしい誤算である。

夏を過ぎたあたり、変化に気づく

街は、人を変えるようである。
例えば、コーヒーを飲む時には、使い捨ての容器を使うことが普通だったが、保温の水筒持参が普通になった。
エコであるし、少し値引きもうれしい。

服装もスーツ一辺倒だったが、機能的なスタイルになった。
まさに、鎧を脱いだ感じに。
そして、ブログの公開。
今まで、頑なまでに、公に発信しなかった、この原理主義者が柔らか頭になった。
仕事のやり方も変わり、ご紹介をいただけるまでの待ちの姿勢から、提案を綿密に練り上げ、自分の信念をぶつける、熱烈アクティブ姿勢に変化してきた。
効果もテキメン。
新規取引先も飛躍的に増えていることからも、うなづける。

短所だった短気な性格もガラッと変わった。
粘り強くなったと思う。来年は、どのように変化するか?
自分が楽しみである。


2009/12/31

私の歩んできた道 第15回~世田谷態勢の終わり

この、私の歩んできた道を書くことにより、過去と向き合うことが出来てよかったと思います。

私は、この15年間この2つのことが出来たかどうか?

1つ目
小売店様に対して、メーカーと癒着せず、自分の出来うる限りの提案ができたかどうか?

それは、自信があります。
粗利の高い自社製造商品すら、売らなかったぐらいだから、しっかりやれたと思う。

2つ目
メーカーの方を幸せにする営業ができたかどうか?
メーカーということは、父である。
父を幸せにする営業をできたかどうか?

15年前から今の仕事をやることは、決めていた。
具体的な何かがないといけないから、自分の都合で父を担いで工場をはじめた。

父を幸せにできたかどうか?

解答が出ない自分が情けない。


2009/12/30

私の歩んできた道 第14回~撤退

父が会社を去ってから、指揮命令系統が統一されたが、現場の掌握は簡単にいかなかった。

簡単にいくと思ったが、簡単ではなかった。

改めて父の偉大さを思い知らされる。

父を担いで工場を始めたので、継続の意味がなくなったと漠然と考えるようになった。

もはや、工場を継続する情熱は失せていた。

一方売り場提案は、以前にも増して好調だった。

進むべく道は、明白だった。

工場を閉めるしかない。

昨年の年末に決断した。

さみしい感じもしたが、長年の呪縛から解き放たれた、開放感があった。


2009/12/29

私の歩んできた道 第13回~引退

自社製造は、生産数量の横ばいで、次の展開を模索している状態が続いていた。

また、人手不足により、この数年、私自ら、現場に出るようになる。

もうこのとき、三銃士は、社を去っていた。

漂流している現実があった。
行き先のわからない、船のように

そのころ、父が引退を表明した。

長らく、休みもなく出勤をした彼に感謝を言いたい。

もう、自分がいなくても、大丈夫だと思ってくれたのだろう。


2009/12/28

私の歩んできた道 第12回~矛盾

自社商品の他社関連商品を、自社店舗だけでなく小売店舗への卸売りしていく中で。

そのころ、売り場の全体の景色を意識したのも、そのころです。

矛盾を感じてきました。

それは、

自社製造商品を売らなければならないのに、お客様に勧められない自分がいたのです。

他社と比べ、相対的に自社商品の競争力が落ちていることは、明らかだったのです。

認めたくない自分、正直に認めたい自分の間で、心の葛藤がありました。


2009/12/27

私の歩んできた道 第11回~売り場提案の開始

自社商品と合わせ、他社の関連した商品も合わせて営業すると方針を決めたものの。
当てがあるわけでなく。

そのころ、工場の隣の部分で弁当屋をやらないかというお話をいただき、開店することになった。

工場のある所は、住宅地と工業地区の混在する所だった。

自社商品の他、他社商品も置かないと、お客様に飽きられると考え、他社商品の仕入れを考えた。

初めて取引していただいた小売のバイヤーの方に、おにぎりメーカー、サンドイッチメーカーを紹介していただいた。

自社の店舗の販売だけでなく、私どものお取引先スーパーへの卸売りが始まった。


2009/12/26

私の歩んできた道 第10回~独自販売ルート

問屋さんへの販売は順調であったが、条件面が厳しく、独自の販売ルートを見つけることにした。

ノウハウやコネなどはなく、手探り状態であった。
高級スーパーをターゲットにし、図書館に通った。

図書館には、スーパーマーケットの住所録がある。
ネットがない時代である。
あったら便利だと思う。

ターゲットを見つけ出し、営業をかけることにした。

はじめのうちは、好調であった。

次第に、ターゲットがなくなっていった。

そのときに、ひとつ気づいたことがあった。

スーパーマーケットの担当者に商談の時間をいただいているのに、自社商品だけの話だけで、場がもたなくなる。

それならば、他社の関連した商品をあわせて提案しようと。

自社商品と合わせて、他社商品も合わせて売り場の提案をしようと。

営業に付加価値がつけられると、その時は、漠然と考えていた。


2009/12/25

私の歩んできた道 第9回~大きな壁

入院から復帰し、工場内環境の整備改善をこなしていった。

仕入先の変更
更なる衛生対策や製造作業手順の整備。

上記2点を重要項目としてやっていく過程であることに気づいた。

それは、時がたつと、ルールが変更されているということであった。

致命的である。

工場は、私の父がメニューや工場内の運用をやっていたが、一度決まったことも、父の昔のやりかたで変えてしまっているようだった。

私のやっていたことも、父から見てみると、危なっかしいと思っていたのだろう。

アルバイトの方々も、私の指示か、毎日現場にいる私の父親の意見のどっちの言っている事を聞いていいか、わからなかったと思う。

指揮命令系統が、ぐちゃぐちゃということだった。

アルバイトの方々に、大変な苦労をかけたことを、ここでお詫びしたい。


2009/12/24

私の歩んできた道 第8回~三銃士の登場

三ヶ月の入院生活が終えようやく復帰してきた。

はじめは仕事ができない焦りもあったが、動けないから仕方がない。

今から考えると、その間、じっくり今後の方針を考える時間をくれたことに、感謝している。

現場に戻ってきたときに、そこには、三銃士がいた。

それは、入院するときに、まだ新人だったアルバイトの3人だった。

頼もしい存在になっていた。

復帰したことだけでなく、この三銃士の成長も大変うれしい出来事であった。

入院の三ヶ月の遅れを取り戻すべく、基盤整備を進めなくてはならない。

基盤整備と改善をする過程で、
私の前に、大きな壁ができていることが、見え隠れした。

それは、意外なものであった。

このときには、まだ気づいていなかった。



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